みんなの優しさが包んでくれてるから
私は笑顔でいられてる
2008/01/13 (Sun)
12月28日
産後8日目
お七夜の日の夜7時頃。
まだお食事会は続いていて、
お母さんたちが楽しんでいるリビングで
椅子に座り、搾乳した母乳を菜々にあげていた。
飲ませはじめて、ちょっとしたら何かが漏れる感覚。
…?
これは…
助産師さんが言ってた尿漏れ?
なんだ…?と不安に思いつつ、
菜々が哺乳瓶で、んくっんくっっと一生懸命飲んでいたから
そのまま飲ませていた。
と、どばっと出た。
異常なことに気づき、旦那に菜々を預ける。
トイレに行こうと歩いたら、点々と床に漏れていたのは
尿ではなく、血液だった。
パニック状態に陥った瞬間だった。
出血量は大量で、私の足元は血の海といった状態だった。
病院に電話をして、看護婦さんと話をした。
「レバーのようなものが出た?
たまっていたものかもしれないわね。
トイレに行って子宮底のところを押してみて。
それで様子をみて、まだ生理2日目以上の出血が続くようなら
また連絡してね」
レバーのようなもの。
ナプキンの上に確かについている。
トイレに行って、子宮底を押す。
これ以上出てくる様子はない。
でも、すべて着替えて私は2階で横になることになった。
お義母さんを招いた側なのに、横になるなんて…と思ったが、
今日ばかりはそんなことを言っていられない。
旦那がお義母さんが送って行った。
しばらく横になっていたが、変わったことはない。
もう大丈夫だと思った。
1階に降り、母親に「シャワーを浴びたい」といった。
母親に「今日はやめておきなさい」と言われ、
しぶしぶ2階にあがりまた横になった。
また大量に出る感覚がして、トイレに行った。
やはり大量に出血をして、パジャマのズボンなども取り換えた。
この時点では 「まだ中に残っていたのか」と思っていた。
母親が「(旦那に)お風呂入っていってもらったら?」と言っていたので、
旦那に電話をした。
旦那が来て、少し話しているとまた出る感覚。
トイレに行く。
またレバー状のものと一緒に大量の出血。
太ももまで真っ赤になっていた。
3度目の大量出血。
再び病院に電話をすることにした。
大量出血以外にもずっとだらだらと鮮血が流れていることを伝えた。
病院に来るよう指示された。
出血量がすごく、ひどい貧血。
立ち上がるのがつらく、母親を呼んで
支えてもらいながら階段を下りた。
妹には 「 顔色、やばいよ」と言われた。
菜々を母親に預け、
パジャマ姿のままで、旦那の運転する車で病院に向かう。
病院に着くと、すぐに内診台にあがった。
「もう全部でたみたいだな」
と、子宮底を押しながら見てくれた。
そのあとそのままの体勢で様子を見た。
出血が続いているらしい。
「子宮からではないみたいだ。
膣からかな?」
とりあえず大判のガーゼを3枚詰めてもらい、
出産直後に使用したお産パットをあててもらった。
入院中に処方されていた子宮収縮剤をまた飲むよう指示された。
「たぶんこれで出血は大丈夫だと思う。
だけどもしまた出血したら夜中でもいいから連絡をするように。
そして、明日診察においで。ガーゼを取らなきゃいけないから。
あと、今日は横になっていなさい」
菜々の世話を聞いたら、ダメだ!と即答された。
昨日退院したばかり。
自分の子どもの面倒を見れないなんて、なんてことだ。
先生の言葉を聞いて、涙があふれた。
菜々に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
今日の夜は旦那に菜々を見てもらうことになった。
昨日退院したばかりで、
旦那はおむつ替えもミルクもあげたことがない。
家に帰ってきたのが11時すぎ。
旦那に教え、預けて、私は母親の部屋で横になった。
夜中、菜々の泣き声が聞こえる度に、目が覚め
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
旦那は大丈夫かと心配になった。
朝方、全然菜々が泣かなくなったから、
おとなしく寝たのだと思っていた。
朝になって旦那に聞くと、ずっと抱っこをしていたらしい。
私はというと、夜中胸が張ってどうしようもなくて
何度か母親に手伝ってもらい、
痛みに耐えながら、手で搾乳した。
お腹に菜々が宿って以来、ずっと一緒だった。
出産してすぐは夜は別々だったけど、
それからは昼も夜も一緒だった。
菜々の泣き声が聞こえても何もできないことが悲しかった。
心の中で謝るしかできなかった。
辛い夜だった。
産後8日目
お七夜の日の夜7時頃。
まだお食事会は続いていて、
お母さんたちが楽しんでいるリビングで
椅子に座り、搾乳した母乳を菜々にあげていた。
飲ませはじめて、ちょっとしたら何かが漏れる感覚。
…?
これは…
助産師さんが言ってた尿漏れ?
なんだ…?と不安に思いつつ、
菜々が哺乳瓶で、んくっんくっっと一生懸命飲んでいたから
そのまま飲ませていた。
と、どばっと出た。
異常なことに気づき、旦那に菜々を預ける。
トイレに行こうと歩いたら、点々と床に漏れていたのは
尿ではなく、血液だった。
パニック状態に陥った瞬間だった。
出血量は大量で、私の足元は血の海といった状態だった。
病院に電話をして、看護婦さんと話をした。
「レバーのようなものが出た?
たまっていたものかもしれないわね。
トイレに行って子宮底のところを押してみて。
それで様子をみて、まだ生理2日目以上の出血が続くようなら
また連絡してね」
レバーのようなもの。
ナプキンの上に確かについている。
トイレに行って、子宮底を押す。
これ以上出てくる様子はない。
でも、すべて着替えて私は2階で横になることになった。
お義母さんを招いた側なのに、横になるなんて…と思ったが、
今日ばかりはそんなことを言っていられない。
旦那がお義母さんが送って行った。
しばらく横になっていたが、変わったことはない。
もう大丈夫だと思った。
1階に降り、母親に「シャワーを浴びたい」といった。
母親に「今日はやめておきなさい」と言われ、
しぶしぶ2階にあがりまた横になった。
また大量に出る感覚がして、トイレに行った。
やはり大量に出血をして、パジャマのズボンなども取り換えた。
この時点では 「まだ中に残っていたのか」と思っていた。
母親が「(旦那に)お風呂入っていってもらったら?」と言っていたので、
旦那に電話をした。
旦那が来て、少し話しているとまた出る感覚。
トイレに行く。
またレバー状のものと一緒に大量の出血。
太ももまで真っ赤になっていた。
3度目の大量出血。
再び病院に電話をすることにした。
大量出血以外にもずっとだらだらと鮮血が流れていることを伝えた。
病院に来るよう指示された。
出血量がすごく、ひどい貧血。
立ち上がるのがつらく、母親を呼んで
支えてもらいながら階段を下りた。
妹には 「 顔色、やばいよ」と言われた。
菜々を母親に預け、
パジャマ姿のままで、旦那の運転する車で病院に向かう。
病院に着くと、すぐに内診台にあがった。
「もう全部でたみたいだな」
と、子宮底を押しながら見てくれた。
そのあとそのままの体勢で様子を見た。
出血が続いているらしい。
「子宮からではないみたいだ。
膣からかな?」
とりあえず大判のガーゼを3枚詰めてもらい、
出産直後に使用したお産パットをあててもらった。
入院中に処方されていた子宮収縮剤をまた飲むよう指示された。
「たぶんこれで出血は大丈夫だと思う。
だけどもしまた出血したら夜中でもいいから連絡をするように。
そして、明日診察においで。ガーゼを取らなきゃいけないから。
あと、今日は横になっていなさい」
菜々の世話を聞いたら、ダメだ!と即答された。
昨日退院したばかり。
自分の子どもの面倒を見れないなんて、なんてことだ。
先生の言葉を聞いて、涙があふれた。
菜々に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
今日の夜は旦那に菜々を見てもらうことになった。
昨日退院したばかりで、
旦那はおむつ替えもミルクもあげたことがない。
家に帰ってきたのが11時すぎ。
旦那に教え、預けて、私は母親の部屋で横になった。
夜中、菜々の泣き声が聞こえる度に、目が覚め
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
旦那は大丈夫かと心配になった。
朝方、全然菜々が泣かなくなったから、
おとなしく寝たのだと思っていた。
朝になって旦那に聞くと、ずっと抱っこをしていたらしい。
私はというと、夜中胸が張ってどうしようもなくて
何度か母親に手伝ってもらい、
痛みに耐えながら、手で搾乳した。
お腹に菜々が宿って以来、ずっと一緒だった。
出産してすぐは夜は別々だったけど、
それからは昼も夜も一緒だった。
菜々の泣き声が聞こえても何もできないことが悲しかった。
心の中で謝るしかできなかった。
辛い夜だった。
PR
この記事にコメントする
プロフィール
HN:
よーこ
年齢:
43
HP:
性別:
女性
誕生日:
1980/11/30
職業:
専業主婦
自己紹介:
乾癬に悩みながらの日常生活、結婚、妊娠。涙を流したときもたくさんあった。そんな悩みも含め、記録しています。
妊娠発覚までの乾癬についての日記はホームページで「病気のこと」のカテゴリーで綴っています。
2005年02月 乾癬発症
2006年11月11日 結婚
2007年12月21日
女の子出産
妊娠発覚までの乾癬についての日記はホームページで「病気のこと」のカテゴリーで綴っています。
2005年02月 乾癬発症
2006年11月11日 結婚
2007年12月21日
女の子出産
カテゴリー
アーカイブ
最新コメント
アクセス解析
カウンター